【1600年代 江戸時代】
【1945年~ 昭和】
第二次世界大戦後、GHQによる占領政策の一環で国家神道の要素の強いとみなされた神楽は上演禁止の危機に立たされます。
今の島根県の石見地方の神楽が江の川流域を登り高田郡(現安芸高田市)へ、太田川流域を登り山県郡へ伝わり、芸北神楽と呼ばれるようになりました。
【1868年~ 明治】
【1868年~ 明治】
明治政府により国家神道の観点から神職神楽演舞禁止令が出され、それまで神職が舞っていた神楽舞を石見地方を中心に集落の人々が代わりに舞うように変わっていきました。
【1945年~ 昭和】
第二次世界大戦後、GHQによる占領政策の一環で国家神道の要素の強いとみなされた神楽は上演禁止の危機に立たされます。
しかし当時、現在の安芸高田市美土里町で教員をしていた佐々木順三 氏によって、国家神道色を排した謡曲や能、歌舞伎に登場する神々を中心とした約20編(『紅葉狩』など)の新作神楽台本が発表され、GHQの検閲を通過しました。
これにより単純だった舞に演劇性が加えられ、「新作高田舞」として芸北地方にまたたく間に広まりました。
その後、日本が主権回復をして検閲が無くなったことにより、それまで舞われていた神楽の演目も復活していきます。
以降、「新作高田舞」の演目を「新舞」、それ以前の演目を「旧舞」と呼ぶようになりました。
【~ 現在】
1994年の第44回芸石神楽競演大会において、中川戸神楽団が上演した「板蓋宮(いたぶきのみや)」という創作神楽で前代未聞の派手な演出を行ったことで広島神楽にさらなる芸術性と創作性が加わります。
現在でも新舞とは別に年々新たな創作神楽がお披露目されています。
このように広島神楽は10代~30代の若者を中心に伝統を受け継ぎつつも絶え間ない進化を続けています。
(参考文献)
NPO広島神楽芸術研究所「誰でもわかる広島(芸北)神楽年表」
安芸高田市「ミライのカグラ ~神楽の未来を担う若者の決意~」
桑田天使神楽団 団長 松田祐生「13神楽が生き続ける理由」
みしまゆかり「『広島神楽』の歴史」
【YouTube動画】
「神楽-紙芝居アニメーション「ひろしま神楽の歴史」」
「広島神楽の歴史(戦後編)」
その後、日本が主権回復をして検閲が無くなったことにより、それまで舞われていた神楽の演目も復活していきます。
以降、「新作高田舞」の演目を「新舞」、それ以前の演目を「旧舞」と呼ぶようになりました。
【~ 現在】
1994年の第44回芸石神楽競演大会において、中川戸神楽団が上演した「板蓋宮(いたぶきのみや)」という創作神楽で前代未聞の派手な演出を行ったことで広島神楽にさらなる芸術性と創作性が加わります。
現在でも新舞とは別に年々新たな創作神楽がお披露目されています。
このように広島神楽は10代~30代の若者を中心に伝統を受け継ぎつつも絶え間ない進化を続けています。
(参考文献)
NPO広島神楽芸術研究所「誰でもわかる広島(芸北)神楽年表」
安芸高田市「ミライのカグラ ~神楽の未来を担う若者の決意~」
桑田天使神楽団 団長 松田祐生「13神楽が生き続ける理由」
みしまゆかり「『広島神楽』の歴史」
【YouTube動画】
「神楽-紙芝居アニメーション「ひろしま神楽の歴史」」
「広島神楽の歴史(戦後編)」
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